ImPermanence Production
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今、美しきもの

戦争と宇宙とダンス

 

明日は71回目の広島原爆慰霊日がやってくる。

去年、2015年のこの日はドイツのSchloss Brollinで2週間の舞踏ワークショップに参加していた。様々な国からくる、様々なBackgroundの人たち。芸術を、創造性を愛する100人近くの人たちが集まったそのワークショップのテーマは福島・広島だった。去年は東日本大震災が起こってから4年目。福島原発の報道もメディアではすっかり下火に。2015年から本格的に始まったトルコ、シリアからの数万もの避難民がさらなる時代の到来を促し、このFukushima問題も、遠くヨーロッパの地で一つの「過去の出来事」になっているような、そして切実な危機感というものがなくなっているようなそんな気持ちがしていた。

日本人参加者も20人くらいはいただろうか。Non-Japaneseと日本人の間にある福島や広島への理解や想念のギャップ。それは僕がアウシュビッツや、ルワンダでの大虐殺、Pol Potの人民大虐殺など当事者民族と同じように理解できないものなのであろうか。

2週間の舞踏ワークショップ中の8月6日の朝だったか、僕のおばあちゃんが残した原爆体験日記をみんなの前で披露する機会をもらった。最高音質のマイクで語った体験日記に多くのひとが涙を流していたのを今でも覚えている。多くの人が「ありがとう」といっているのを思いだす。アリガトウ、が一体どういう理由で出来てきたのか、様々な想いが異なる文化・歴史にもまれ育った人に響き渡る。

僕はお涙ちょうだい的な趣で読み上げたくなかったし、本当の平和は個人それぞれが平和と感じることで初めて成り立つものだと思っているから、何かしら考えるきっかけになればという想いのほうが強かったし、そのスタンスは今でも変わっていない。何しろヨーロッパにはまだまだ原子力発電所(リンクIAEA‐PRIS)は何百とあるのだから、原発・原爆の話は決して無関係なでは全くない。
 

じゃあ、どうやって平和を作っていくのか。それは本当に難しい問題だと思うし、この地球に本当の平和が来るのは人類が滅亡してからしか訪れないだろうと真剣に思っている。そして、人間がいなくなったとき、この概念としての「平和」がなくなり、無へとかえっていく。戦争、憎しみは絶対になくなるはずがない、それは喜びや悲しみがなくならないのと同じこと。

広島に生まれると否応なく戦争教育を12年間、或いは16年間受けさせられる。何の教育にも言えることだが「受けさせられる」というところが問題だ。広島人はあまり「戦争・原爆」のことを話したがらないのは、ある種の「お前にはわからんだろう」という被害者意識が強いのか、それとも、散々耳にし、口にしてきたこの「原爆」という言葉に一種のトラウマがあるのか。いずれにせよ、ダイアログに乏しい、戦争や原爆、「平和」という変わりゆく観念にDiscussionがないのが問題だ。

うちの祖母の戦争の話を聞くと、それは悲しいけれど、なぜか美しい。

愛しい人をなくすことで生まれる新たな想い、強さ、よみがえる楽しい思い出。必死で生きてきた、生きてることの証。おばあちゃんは、戦後60年あまりたって、当時の思いをつづった。その中で「これを運命としてかたずけたくない」といっている。これはとても興味深い言葉であると思う。

「運命」

10年目の結婚記念日に夫を亡くすという運命。再婚し、子供ができ、僕が生まれ、その僕がこうやってブログに彼女の話をUpdateする運命。これはやっぱり運命だ、と僕は思う。だからこそつらく、美しいのである。この瞬時に起こる地からくる強さ。

昨日、一つの本を読み終わった「宇宙の根っこにつながる生き方」天外伺朗著。この時期にこの本を読むことも運命。友達が、たまたま持っていた本を「おもしろいよ」といって貸してくれた。

ここにはこう記してる。「宇宙の愛を感じるのが本当の幸せ」といっている。スピリチュアルというよりは、Awarenessの問題である。宇宙において人間があるのではなく、人間は宇宙のほんの一つの共同分子といっている。すべてが連続する瞬間的な必然であり自分が意思をもって行っている決定でさえも「集合的無意識」によって作られている。そこにからむ「想念」というものがその集合的無意識に働きかけて、幸せな人には人が自然に集まり、病気をする人は常に病気をするという現象が起こるという。

「運命」といういうと、外部の何者かにコントロールされているような感覚があるが、その運命も自分の「想念」が無意識化の自分と結びついて物事が起こるということになるのだそうだ。

おばあさんの最初の旦那が被爆した、あの何万人もの中からなんとか居所を見つけ、4日間だけだけれども看病し、10年目の結婚記念日に死別したことが必然だったとすれば、第二次世界大戦、満州事変、日中戦争、日露戦争、江戸幕府無血開城そいうった過去のさかのぼる一連の出来事も、再婚、出産、孫の誕生という現在へ向かう一連の出来事も、すべて私たちの「想念」がもとでできた「必然」で出来上がった「この世」ということなのだとすると、一人一人の「想念」の正しさというのは恐ろしく大事になものになる。

天外氏はこの「宇宙の愛を感じる」ためには私たちの個としての自我の衣、そしてその下にあるSelfの部分、そしてこの下にある集合的無意識の部分の重要性を指摘する。ダンスを通してどこまで掘り下げられるか。

 


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