ImPermanence Production
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今、美しきもの

Feldencraisフェルデンクライスと神?

今、友人でFeldenkraisの認定施術師でもありフィジオセラピストであるHolly(ホリー)のFeldenkraisセッション企画を通して、体の部分がどのようにほかの体の部分と関係しいるか、どのようにそれを感覚として得るのかを学んでいる。日本ではまだまだ認知の低いこのFeldekcraisはMoshe Feldenkraisが確立した’小さな動きによって脳に働きかける’メソッドだそうだ。こういうとなんだかよくわからない。いろいろと情報をみてもいまいちよくわからないのは、Feldenkrais Methodは「外見の動きが最小なので、その形がVideoでもよくわからない」「自分の体で感じて感覚を通して経験することで理解するもの」などの理由があるからだと思っている。 Hollyと何度か話をしたとき、日常で行っていることで何を右手で、何を左手でやっているかを列記してみた。

右手で行うこと:文字を書く、耳や鼻を掘る、ダンスをするのだけれど動きは右から、ドアを開ける、鍵をつかう、箸を持つ、はさみ、おけつを拭くなどなど(ちなみに僕は右利き)

左手で行うこと:携帯でメッセージを打つ、歯ブラシ、(バリスタでもある)ミルクフォームを作るとき容器を左手で持つ、巻きたばこを巻く、などなど

こういった反復する日常生活における肉体行動の多くに無意識のChoiceがあるらしい。無意識の選択はその状況に最も適したものが使われる、あるいは使われないという。そこで、体のある骨格、筋肉にある種のゆがみ・摩耗・ずれが生じてくる、この反復作業を僕たちは「癖」と呼ぶのだろう。その度重なる無意識の行動(癖)がある体の部分に「痛み」としてあらわれてくることがある。もちろん、その反復作業が全く痛みを作り出さないものであることも多々ある、それは「優位性行動」とでもいうのだろうか。

一方で、ダンスの先生であるTonyとPerformance ArtにおけるSimplicity(シンプルさ)を話していた。例えばMaria AbramovicのGazing Performanceである。これはMariaが一方の椅子に座り、もう一人の人間が面と向かいもう一方の椅子に座る。そして、ただ単純に二人がお互いに見つめあうのである。この行動は、普段何気なく誰もが多かれ少なかれしていることだ。シンプルだ・・。ただ、この設定には深さがある、何層にも奥深いなにかが。空間性、肉体性(座る、対峙する、見つめる)、精神性、感情、高次元とのつながりー神秘性を秘めている。こうしてみると、視覚的にシンプルに見えることも、深く意識し観察するとそれはすごく複雑なことが行われているということに気付く。それが一体何かはすぐには(あるいは永遠に)わからないとしても。

谷川俊太郎の「Once 私の20歳代」の一節に「非常な複雑を内蔵した単純はより高次なものである。自動車が走ることは複雑なことだ。しかし人間が歩くことの複雑には遠く及ばない。そして神。」とある。あぁ、まさにこういうことだ。

僕の左腰の痛みは左腰の痛みなんかではなく、もしかしたら左手で打っている携帯メッセージなのかもしれない。或いは、右手で掘る鼻の影響なのかもしれない。いずれにしても、これからもっと体に真剣に耳を傾けてみよう。耳を傾ける、それはでは一向に気付けないのかもしれない。意識を集中させて感じることか。意識で体という箱を感じてみる。そこにはやはり神はいるのかもしれない。