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今、美しきもの

ダンスと社会福祉

今日は社会福祉の仕事の日である。 僕の仕事は世界の紛争地域からくる再定住者としてやってくる避難民Refugeeを到着から6か月間サポートする仕事 (再定住者とは)。最近はSyria人、或いはサダム・フセイン政権時代からシリアで避難生活をしていたイラク人がもっぱら多い。シリア人でもイラク人でも移民の人たちの移民時代(一国から一国へ逃れる旅のことをRefugee Journeyと言ったりする人もいる)の経験は、物質的・肉体的に守られて生まれ育った僕には想像を超えるものが多い。ある人はVet(動物医)、ある人は大学教授、ある人は無免許トラックドライバー。もちろん小学校で教育を終了している人も数多い。と、こういう話をすると友人の多くはすごい仕事だといってくれるが、所詮はお役所仕事。がっちりと固められたマニュアルがあり、プロセスがあり、膨大な書類があり、そして時には一筋縄ではいかないクライアントもいる。

その一方で、僕はArtで人は救えるとすっかり信じていて、そちらの活動もダンスを中心にやっている。この二つの間の大きな違いは、社会福祉は人のため、地域のため、国のために(表向きは)存在するのだけれど、Artistとして生活するときは自分のために存在しているというか、自分が中心とした頭脳や意識の働き方となる。物事を見るレンズが広く浅くから狭く深くなる、それがEgoisticかどうかは別として。

最近こんなことを2人のクライアントにそれぞれ言われた。4年前にサポートしたクライアントに道でばったり声をかけられ、こちらはすっかり名前も顔も覚えていなかったのだけれど、彼女は「私はオーストラリアに来た時には誰も頼る人がいなかった。頼れたのはTaka(僕の名前)だけだったのよ」と笑顔で去っていった。別のクライアントの4歳の女の子には、今度生まれてくる赤ん坊は絶対男のがいいという。なぜ?と聞くと、名前をTakaにしたいから、と。こういう思わぬ言葉をもらうとうれしいと同時に、Artで人が救われる以前にやっぱり社会福祉のような社会システムが必要だと痛感する。

Joseph Cambellは、シャーマンがいなくなったこの時代、現実と非現実を結ぶ役割をするのはArtだという。彼自身、妻がダンサーだったこともあってか、その思いは経験された上での言葉なのであろう。目に見えないものを信じなくなった今、人間がどうなるかは今日の新聞を見ればわかる。人は今日の出来事に一生懸命時間と労力をつぎ足す、そこには人生に価値のある英知など含まれていないのにもかかわらず。昔の大学はある意味、世間と分離されていて、校外で何が起こっていようと、聖書をラテン語で学び、ギリシャ神話を読み解き、多くの偉大な絵画、音楽、建築学、物理学を学んだ、と語っている。僕は、この世界にこそArtistが住んでいるのだと思っている。いわゆる9-5時の仕事をもたず、本を読み、美術館に足を運び、友とそれについて夜を徹して話す。その存在はこの今の超高速で回り続ける社会に最も必要なものの一つであるのかもしれない。一方で、その芸術家と世間の溝が大きいのも確かである。ここに僕は何かを感じるのである。

また常々、僕はKrishnamartiが言っていた「Crisis of Consciousness(良心の危機)」という言葉に圧倒されてきた。現代のあらゆる社会問題、紛争はつまるところ良心の欠落から生まれてくるということだ。もちろんそれは道徳的、或いは哲学的な見方の一つではあると思うが、これはきっと1000年前も500年前も新しい時代が来るたびに言われてきたことだろう。いろいろと構造的な問題があるにせよ、社会福祉の仕事が必要な社会があり、それをサポートする公共サービスがあること自体が、一方で、哲学的概念である「良心」見事にActualiseされたものともいえる。このプログラムが始まったのはわずか1978年なのだから。そう思うと、「良心の危機」では現在の問題はとても説明ができない、或いは不十分である。一方で、このActualiseされた「良心」が、僕のサポートするクライアントをしっかりサポートしているかと言われるとNoである。所詮、僕らは彼らの人生において小さな脇役なのである。彼らが本来の生と精を取り戻すために何が必要といえば、やはり、一つの精神的な高揚感なのではないと考える、そしてこれは生活にいろんな形で現れるArtによって大きく支えられる。

さて、ここでダンスと社会福祉の微妙な関係が僕の中であいやーと今日もやりあっている。