ImPermanence Production
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今、美しきもの

全体としての意識

踊りとは何か。変性意識状態とは何か。変性意識に関しては上野圭一氏の「ナチュラル・ハイー私を超える私」という本がとてもうまく説明している。この本と合わせて読み始めたJosef Cambellの「神話の力」には驚くほどの関連性がある。神話がもたらす変性意識状態への誘い。今回は、上野圭一氏の本を読んだ時の僕の日記をもってより深い考察ができたらと思う。 2016年1月2日

今日はSatyananda Yogaが行われているビクトリア州RocklynにあるAshramに2時に到着。そして2時間のKarma Yogaを行う。これは、Focusするということ、与えられた仕事を6感を使いながら行うということ。その後に行われたChantingとMedicationは僕にはとても奇妙に感じられた。宗教じみた・・。このあたりの線引きは難しい。主宰者はSatyanandaは宗教ではないと滞在中に生徒と話しているのを何度か耳にした。つまりは、Yogaの一種であると。Worldliness(世俗的)-俗中に俗を勝る(荘子)-な世界からの断絶。

Karma Yogaで、ある朝、言われたとおりに桃の木の周りの草むしりをしていた。一緒に訪れている友人が手ではなくスコップで土を掘り起こし柔らかくなった土から草を取り除いているのを見て、Swatiと呼ばれるグル・先生が猛烈な勢いで怒鳴ってきた。「誰がそんな指示をしたのだ。桃の木の根はとても繊細だからスコップなど使ってはならない」と。精神を現世からより高い高次元のレベルへ高める修行をしているSwatiさえもやはり人間だのだ。同じ時期に来た生徒、George、Kim、Brahmanのほうが僕は精神の純粋さ、柔軟性、流動性、適応性においてその高さがうかがわれた。

一日目はまず、携帯のReceptionもWifiもない環境に戸惑う。1日が長く感じる。Evening Class後のChantingの後にはMouna(practice of silence)を行った。表面上はSlienceでも頭の中では多くのことが駆け巡る、後悔・自問・思考・考察・理解。普段、口数の多いほうではない自分がMounaが始まると不安になる。「話をしてはいけないということ」と社会通念で無意識に話していた自分との間にあるギャップがあふれ出る。土方巽でいう、「体がどんどん制度化される」。

よく、「自然とつがる」とか「Connect to nature」というキャッチがあるが、それは自分の肉体にとってどういう意味なのかを考える。自然あふれるところにいるから気持ち良いと感じるのは確かに身体的、あるいは精神衛生的にも証明されている。しかし、それは「自然とつながる」第一の段階で、必ずしも「つながって」いるわけではないような気がする。例えば、田中泯のような生き方をみていると、彼の体から自然が湧き出ているように感じる。彼自身が自然だと言わんばかりのエネルギー。エネルギーの循環が体、大地を一つの有機体として静かに行われているようである。ここで変性意識の理論を考えてみると、トランスパーソナル理論家のKen Wilberは「意識のスペクトル論」をいうものを提示している。ここで彼は「聖なる宇宙意識」という表現で統一意識を表現している。これは実存のlevelを超えてものである。自我のlevelを理論化したFruedをさらに超えたものである。この「聖なる宇宙意識」は古代からすでに広く信仰されてきたものである。戦後、日本では急速な現代化に伴ってこの信仰が軽視され始めた。西洋ではアリストテレスの時代からChristianityの隆興を通して人間と神との差は明確にされてきた。

この「聖なる宇宙意識」は単に俗的にいう「自分らしく、楽しき生きる」というものはまたその質感が違うような気がしてならない。それは、一つの個体としての意識ではなく、より包括的な全体の中の一つという意識が強いと思うからだ。

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