ImPermanence Production
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今、美しきもの

「脱いで、脱いで、脱ぎまくれ」公演

3月20日の金曜日は、地下鉄サリン事件から20年目を迎えるということでテレビではいろいろな特集をしてた。なんだか、3.11の特集もテレビでは危機感の伝わる映像と証言で埋め尽くされてても、一歩、東京中心部にでてみると、もはやそんな危機感は何処へやら。渋谷ではパーティーバスにギュウギュウづめの男たちがテクノミュージックをがんがんに轟かせながら走り去っていったりしてた。 そんな中で僕たちの初の公演、「脱いで、脱いで、脱ぎまくれ 東京公演」が西麻布にあるフラットハウスをお披露目しました。場所は大きなスタジオ。白い壁で囲まれた長方形の空間。入ったときには広いさっぱりとした小奇麗な空間という感じがしたけど、パズルの形をしたマットを床にひいて、照明を落とすと、奥多摩で感じたすっきり、温かみのある空間に。そして、天井からつるされた一匹のかもめ。

予約のお客さんの少なさに少々びびりながらも開演前にはある程度、席が埋まるほどに。予約のお客さんがまだ来ていないということで、みんなでいきなり前座をすることに。そして、1時間の即興が始まった。内容の詳細はおいとして、最終的にはお客さんには喜んでいただけた様子だった。

踊っている間は、京ちゃんと加奈ちゃんの即興やりとりに戸惑う。「お米がたべたい」とか、いきなり言い始めるから、Butohをする僕にとっては力がふにゃっと抜けてしまったりする。しかしながら、踊っている間のみんなとの距離感は心地よいものだった。絡むことを即興でやろうとするととても難しい。カナちゃんが近くにきたり、何かを言ったことにそのまま反応するのではなく、それらの現象をイメージとしてとらえる。カナちゃんから受け取ったイメージはなぜか桜の花だった。桜の花がちらちらと舞い落ちる。舞うのだから、それはまっすぐではないし、ひとつではない。カナちゃんは、そんななか、身体的には離れていく。僕は、その桜の花びらとしばし踊りを続ける。

椅子に後ろ向きに座って、背中で踊ったときには僕は赤ちゃんを抱いていた。それは、自分の赤ちゃんなのかはわからない。でも、ひどくやせ細った、哀しげな赤ちゃんだった。そっとその赤ちゃんをそこにおろす。1時間はあっという間だった。僕らは時間の制約の無い4次元の世界にいたのかもしれない。

即興の定義の多様性に驚き、戸惑った。全く枠組みの無い即興。僅かにある枠組み、その中での即興、枠組みをいったん作ってそれを壊していく即興。枠組みのある・無いことで変わる、即興の意味合い。これらを決める、あるいは決めないことはとても難しい作業だった。決めないことを決めることへの挑戦。また、即興には、一人一人のダンサーのうちの中でも起こる。中嶋夏さんは、何者かによって、踊らされると表現する。これはあくまで暗黒舞踏での話であるが。

芸術とは、言葉や他の媒体には出来ない現象を色や、形、所作、動作で表すものだと般若心経の根本理念の解釈を通して誰かがいっていた。言語や記号で表せられない、そこにある何かや凄みを伝える唯一のものが身体だとすると、この公演も結局は意味の無いものに成ってしまうのだが。意味のあるものなんて何も無い、という谷川俊太郎の詩が思い出される。