ImPermanence Production
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今、美しきもの

2015年3月1日

今日は昼から、浅草にあるアサヒ・アートスクエアに鈴木ユキオ氏振付・演出の「知るということ」というIntegrated Dance Companyとの合作を見に行った。ダンスをしているものにとって、基本的動作の立つ・飛ぶ・走る・足を伸ばすなどの諸動作は、まず、それらの各身体機能が正常に作動するという前提からはじまる。このパフォーマンスは日本では珍しいダンスと社会との関わりを「身体」を使って模索・提示するものだった。 疑:最初の10分を経過した時点で、公演が「お涙頂戴的なもの」に流れていかないか不安だった。そうなっちゃうと、健常者と足が不自由なダンサーとの会話が、そして、見てる側との対話ができなくなる。それは、一方的な押し付け的なモノローグで終わってしまうから。でも、それは起こらなかった。事実を伝えるという点で、このパフォーマンスは足が不自由な人が今の社会で受けるつらさ、決して平坦ではなかった過去と病気との折り合い、いわゆる健常者の得ることの出来ない喜び、健常者と同様に得られる喜び、将来への望みをダンスを通して、ただ伝えていた。この辺りの鈴木ユキオ氏の足の不自由なダンサーへの真の「理解度」が伺える。

驚:泉葉子さんの「歩行」に僕はうなってしまった。足首、ひざがありえない方向に曲がる。最初は義足なのかと思った。でも、義足だとあんな曲がり方はしない。後でわかったけど、その足はまさしく泉さんの足。彼女が車椅子から降りてヨガのダウンドッグのような格好で歩いているのをみて、僕は「美しい」思った。今まで苦労されてきたこともあるだろう彼女のその足をみて、「美しい」は不謹慎かと思ったけど、それでも、そう思った。僕は彼女のあの一歩、その一歩にかける集中力と、やっぱりそこに「生きる」ということを感じたのだともう。足が足の機能を失ったとき、どうやって歩くかなんて考えたことも無い。でも、彼女は必要に迫られて、何度も何度も考えたのだろうし、練習もされたのだと思う。考えた上で、足は一歩づつ丁寧に運んであげる。注意して、注意して。ああ、その一歩にかける一瞬に見える、生きるという生の真剣さ。

体の筋肉が病気のためほとんど衰えてしまった近藤さんの前進の仕方は、這う、といったほうが近い。でも、健常者であるダンサーの「這う」とは全く違う。僕は、彼がどうやって前進しているのかを観察した。近藤さんはあらゆる骨をつかっていた。手首、ひじ、腰。足はほとんどうごかないから(推測)、上半身の関節をたくさんつかう。寝転がるときも、上手に体をひねって。彼の足はコントロールされてない足。でもなぜか、そこには生命があるという不思議な光景。それには理由があると思う。近藤さんが、右足をよくバレリーナがするようにぎゅっと体で抱きしめているのを見て、彼はそんな足が大好きなのだ、と思った。そこに理由があるのだと思う。

恐:天方さんは、股関節、腰の弱さから去年から車椅子に乗っているそうで、今でもまだ歩けるし、立てる。長時間は無理だ。そんな彼女が車椅子から立ち上がるとき、僕ははらはらした。腰がくだけちゃったらどうするの??と、本気で思っていた。腰がまるでダルマおとしの不安定な積み木のようにぐらぐらしていた。あちゃー、と僕は本当におもってた。大丈夫だったけど。なんだあの緊張感は、とあとで思った。ただたつことで、ダンサーが立てるかどうかというものを目の前にして感じるこの緊張感。これは、やっぱり健常者のダンサーには出せない。

知:3人の足が自由に利かないダンサーは、僕がしらないことをたくさん知っている。泉さんがいっていたように、歳をとることで彼らのサポートのニーズも上がってくるそうだ。ということは、かれらは毎日自分の体を知ることを意識的に行っているはずだ。観客もこの僅か80分で知ったことは大きかっただろう。共演者はどうだったのだろう。鈴木氏は「自分が何もしならいことに気がつくことが」といっている。知らないことは物悲しい。そして、知ろうとしないことは罪深い、と僕は思う。

ダンス:彼らの動きは生活の中での思考錯誤のなかで生まれた産物。足がうごかないと、移動するときに何処を使うか考え、ためし、症状が変わるにつれて、その動きも変わってくる。常に思考と実践と訂正が行われる。これこそが僕は芸術だと思う。一歩を生きるための一瞬。今日という一日。

土方巽:は「不具者でありたい、いっそのこと自分は不具者に生まれついていたほうがよかったのだ」といった。これは身体だけではなく、精神性にもいったものなのかはよくわからないが、彼のこの言葉には、舞踏手として体の部位が動かない人への憧憬があったのでは無いかと思う。僕は、公演の跡に「身体的個性」という言葉がぱっと浮かんできた。「冗談じゃない」とい言葉がとんできそうだが、彼は本気でそう思っていたに違いない。

問:僕はこの公演を見て、坂口恭平的口調で言えば、ダンスに多少かかわるものとして、そのシステムの中に違うレイヤーを感じられたと思う。彼らは僕にもってないものを持っている。彼らは僕より多くに人に助けをもらって生きているだろう。でも、社会的に助けが必要なのは僕だって同じだ。みんな同じ。ただ、彼らは社会的レイヤーのなかで半強制的に人と交わる。これがまた僕に無いものだ。このレイヤーでのコミュニケーションは切実だ。そして重要だ。人は人を介してじゃないと育たない、成長しない。彼らのもっているその身体性とレジリエンス、そして彼らを取り巻くサポートの豊かさを感じることが出来て本当によかった!